江戸川「もの」語り Story
逆境をはねのけ磨いた技術が生み出す、漆黒の美しさ。
山口漆芸
山口敦雄さん
「漆黒」とは黒い色の表現の一つで、「真っ黒」というだけでなく、その字の通り、黒漆を塗ったような「黒く濡れたような艶がある状態」を表す言葉だ。漆の木から採れる樹液を塗料とし、木で作ったお椀や箱物の上に何度も塗り重ねて作る「漆器」は、美しい光沢や艶があるだけでなく、塗り重ねるほどに強度が増し、耐水、断熱、防腐性も非常に優れたものになる。漆器の産地は日本各地にあり、江戸時代から続く江戸の漆器は「粋」な美しさが魅力。特に漆黒、朱色などの落ち着いた色合いが主流となっている。
「山口漆芸」4代目、山口敦雄さんは、今では東京でも数少ない漆専門の「塗師」の一人。その漆製品は、まぶしいほどの光沢と、顔が映るほどの“鏡のような艶”に定評がある。それは、漆を磨いて仕上げの艶を引き出す「蝋色(ろいろ)仕上げ」の技術の高さからくるものだ。
船堀駅から徒歩約5分、中川と新川を臨む静かな住宅街の一角にある工房で、山口さんは今日も、黙々と手を動かしている。作られて70〜80年は経つという刷毛(漆を塗る作業に使う)を始め、道具はほとんど父から受け継いだものだ。
「これは昔、漆専門の刷毛を作る職人さんが作ったものだけど、ヘラなど、他の道具は自分でも作ります。でも、私の道具の大半は、父が使っていたもの。これがあったからやっている。何もなかったら私、塗師になっていませんよ(笑)」と話す山口さん。
漆製品が完成するまでには幾つかの段階があり、山口さんはまず、「下地付け」を行う。漆を塗る前の“下地作り”ともいえる作業だ。木のお椀や箱などの表面をならし、さらに生漆や塗料を塗って染み込ませて木の素地を強化し、漆を塗る状態に整えていく。たとえば、重箱などの箱物では、板と板の接合部を少し彫り、そこに「刻苧(こくそ)」と呼ばれる木の粉や繊維くずを漆にまぜたものを詰めてから平らに整え、補強する。この下地の工程がしっかりできているかどうかで、その後に漆を塗り重ねて仕上げた時の美しさに大きな違いが出てくるといっても過言ではない。
通常「塗師」が行う漆塗りの作業だけでも30以上もの工程があり、それぞれに職人が関わっているものだが、山口さんはそのすべてを一人で手がけている。
「高校に通いながら16歳で親父に弟子入りして、私が最初に習ったのはヘラを作ることと、下地付けのための刻苧を練る練習でした」と山口さん。
漆を塗る工程には、下塗り、中塗り、上塗りがあり、それぞれの段階で“塗り、乾燥、研ぎ”を繰り返し、美しい光沢を生み出す。
特に、表面がまるで鏡のように輝く「蝋色(ろいろ)仕上げ」と呼ばれる手法は、山口さんの熟練の技が成せるものだ。
塗ったら必ず乾燥させ、そして研ぐ、の繰り返し。研ぐといっても、それは刷毛で塗った表面を平らにしていく作業で、0.1ミリ以下の漆の膜の表面を研いでいくのはまさに超絶技巧ともいえる、かなり繊細な技術だ。実際、私たちにはツルツルに見えた表面でも、山口さんは「まだ刷毛目の波がある」というので驚いた。
「よく、研ぎ方のコツは、とか、聞かれますが、自分の体で覚えていることなので、言葉ではうまく説明できません。技術を言葉で伝えることは難しい。一人ひとり、力の入れ方や癖も違うので、作業をしていきながら自分のものにしていくしかないと思います」
30を超える漆塗りの工程の大半は、山口さんが昔の文献を参考にしながら、ほぼ独学で身につけていったものだという。
「漆塗りのやり方を教えてもらう前に父が亡くなってしまったんです。私が22歳の時でした。それまでの間はずっと「下地付け」をしていたので、父が亡くなった時、漆を塗る作業について私はほとんど初心者でした。だから、本の情報をもとに、父がやっていた作業のことを、ああだったかな、こうだったかなと思い出しながら、塗師の作業を身につけていきました」
当然ながら、技術を身につけるまでには苦労があったようだ。
「いきなり立派なものを作れるわけがありませんよね。父の代から付き合いのあるお茶道具の問屋さんに塗ったものを持って行くと、他の職人さんが作ったものを見せられて“ほら、できが違うだろ。ここまでできるようになったら同じ値段を払うよ”と言われました。でもその人は優しくて、“一人前になるまで注文は取ってあげるから、頑張んな”と言ってくれて、引き続き仕事をくれたんです。それからは何十回、何百回と失敗を繰り返しながら練習しました。まだ景気のいい時代でしたし、親父の残してくれた家もあったので、食べていく分には、なんとかなりました」
30代になり、認めてもらえるものが作れるようになった頃、問屋の旦那さんが、当時、まだ他にもいた塗師や、茶道具の指物師、螺鈿(らでん)を作る職人などを次々と紹介してくれた。その人たちと交流をしながら自分の技術を磨いていく日々……そんな矢先に、母が大病を患い、山口さんは介護の日々に突入した。
「当時は介護保険制度が創設される前で、母のオムツを替えるのも、お風呂に入れるのも、食事作りも、すべて私がやりながら、塗師の仕事も受けていました。その母も私が46歳の時に亡くなり、介護で貯金を使い果たしていたので、それから10年間は清掃のアルバイトをしながら漆塗りを続けました。始発電車で現場に出かけ、4時間、掃除の仕事をして、帰ってきてから漆塗りをするという生活でした」
収入も落ち着いてきたのでアルバイトを辞め、50代後半からは、ひたすら漆塗りに専念した。そうして迎えた60代、今度は自身が脳梗塞を発症し、数ヶ月の入院。懸命のリハビリで、半身に少しの麻痺が残ったものの、利き手の右手はしっかり動かすことができるまでになって仕事に復帰。今に至っている。
塗師としての半生を飄々と語る山口さんだが、苦しいと思う時もあったのではないか。もう漆塗りをやめようと思ったことは、なかったのだろうか。
「確かに、きついなあと思うこともあったし、若い時は漆のせいで真っ黒になった指先を見られるのが恥ずかしくて、いつもポケットに手を入れて歩いたりもしていたけれど、やめようと思ったことは一度もなかったですね。私、初代から数えて塗師の4代目でしょう? そういう意地のようなものが、どこかにあったのかもしれません。自分が漆塗りをするようになって、父のことを考えるようになったんです。父は祖父の弟子になり、祖父の娘である私の母と結婚して3代目を継いだわけですが、修業中、祖父に殴られたこともあったと聞いています。戦争があって家を焼かれて疎開をしたり、苦労も多かっただろうなと。父がまだ生きている頃、私は“こんなんじゃダメだ”、“下手くそ”と、よく叱られたけれど、父の歩いて来た道を考えると、私の苦労なんて、と思いますね。私には、職人を続けていたいという思いと、周りの人たちの助けもあった。そんなこんなで、今も塗師を続けていられることに感謝しています」
塗り重ねた漆が強度と輝きを増していくように、度々の逆境をはね返しながら、黙々と技術を磨き上げてきた山口さん。長年、続けていて、今も難しいと感じるのは朱色を出すことだという。
「漆はその時の温度や湿度によって、乾燥の具合や仕上がりの色が変わってくるので、一年中、調整が必要です。特に朱色は、乾くまでの時間で色合いが微妙に変わってきて、早く乾きすぎると茶色っぽくなってしまう。私は柔らかい朱色にするために、ゆっくりと時間をかけて乾かすようにしています」
意外にも、漆が乾くためには適度な湿度が必要なため、梅雨の時期に最もよく乾き、空気が乾燥する冬場が最も乾きにくいのだという。そのため、湿度を保ち、表面に微細な塵やホコリが付かないようにする意味からも、塗ったものは工房の壁に作られた「風呂」と呼ばれる専用スペースに入れて乾燥させている。
「だから冬には「風呂」の壁を噴霧機などで適度に湿らせて、乾かします。朱色を塗る時は何度もチェック。20代の頃なんて、朱色がどんな風に出るのか気になって、毎晩この工房で寝ていましたよ」
日頃は華道や茶道で使われる道具を中心に製作を行う山口さんだが、漆塗りの常識を超える新たな試みにも積極的に挑戦している。江戸川区主催の産学公プロジェクトにも参加して、美術大学の学生たちと一緒にアイディアを出し合って、新しい漆製品を開発。そこでは折鶴に漆を塗ったイヤリング、あやとりの糸に漆を塗った箸置きなど、斬新な作品が次々と誕生している。
「私が70代で学生たちは20代。半世紀の差を超えて交流ができるなんて、ありがたいことです。最初は、折り紙に漆を塗るの!? と驚いたけれど、やってみるとできるものですね。若者たちの発想に刺激を受けていますよ。今は漆に馴染みのない人も多いと思いますが、身近な日用品からでも使ってもらえたらいいなと思っています」
Writing 牧野容子
Photo 本名由果
事業者のご紹介
4代目の塗師・山口敦雄(号 作介)さんは、東京で数少ない漆専門の「塗師」の一人。漆を磨いて仕上げの艶を引き出す「蝋色(ろいろ)仕上げ」の技術を使って仕上げる漆製品は、まぶしいほどの光沢と、顔が映るほどの“鏡のような艶”に定評がある。近年では漆を使ったアクセサリーや箸など、現代のニーズに合わせた製品作りも手掛けている。
・山口漆芸
・東京都江戸川区船堀2-13-12