江戸川「もの」語り Story
【煎餅】懐かしの味を今にアップデートする 四代目兄弟の挑戦
煎餅
笠原製菓
笠原健徳さん
笠原忠清さん
船堀の路地を曲がった先に、60年以上にわたって煎餅を焼き続けてきた町工場がある。庶民に愛される日本のお菓子として、世代を超えて食されてきた「煎餅」。その伝統を守りながらも、新しい味わいに挑戦を続けるのが笠原製菓の4代目、笠原健徳さん・忠清さん兄弟だ。人気の煎餅ブランド「センベイブラザーズ」を生んだ彼らの歩みには、伝統産業の未来を照らすヒントが隠されていた。
1945年に「笠原煎餅屋」として新宿区で創業した笠原製菓。東京五輪の区画整理をきっかけに、葛飾区を経てこの江戸川区にやってきたのは1970年のこと。以来、この船堀の街で製造卸専門の煎餅工場として半世紀以上にわたって煎餅を焼き続けてきた。味と技術を守り続けているのが、4代目社長の笠原健徳さんと工場長である弟の忠清さん兄弟だ。
船堀の地で55年、家族の味を守り続けて
工場では今も、創業から使い続ける機械で煎餅が焼き上がっていく。そこにもまた、家族経営を続けてきた物語がある。特徴的なのが、創業者である祖父が考案した独自の製造ライン。開業当時は手焼きの煎餅が主流だった時代だが、初代はいち早く自動焼き器を導入。煎餅を焼く「窯」の上部に、味付け後の煎餅を乾かす「乾燥機」を設置した二階建ての構造になっており、煎餅を焼く過程で発生する熱を乾燥に利用するという画期的な仕組みになっている。
「都内の限られた敷地を有効活用しながら窯の熱も無駄にしたくないと、じいちゃんは考えたようです。機械を買うために無理な借金をしたので、一緒に働いてきた両親は返済に苦労したようですが、半世紀経った今もこの機械が笠原製菓の効率的な生産体制の基盤となってくれている。古い設備だけれど、これを見るとじいちゃんの煎餅への情熱や、商売への覚悟が伝わってくるようですし、それを大切に使い続けることが、煎餅を焼いてきた先代たちとの対話のようなものだと感じています」
煎餅づくりの心臓部とも言えるのが、工場長である弟の忠清さんが守り続ける「焼き」の工程だ。焼き網の上に並べた生地に上下のバーナーから赤外線の熱をかけると、生地の中のわずかな水分が熱で蒸発し、お餅が膨らむように生地が浮き上がってくる。この「浮かし」と呼ばれる現象により、煎餅特有のサクサクとした食感が生まれる。
焼き上がった煎餅は、オリジナルの味付け機へと送られる。定番の醤油味であれば、醤油の入った樽に煎餅を入れ、ゆっくりと回転させることで、ムラなく味を付けていく。その後、二階建て構造の利点を活かし上部の乾燥機へ。焼き窯からの余熱を利用しながら、じっくりと乾燥させていく。この一連の流れが、笠原製菓ならではの味と食感を生み出している。
デザイン×職人技で生まれた「かっこいい」煎餅
現在の笠原製菓は、おいしくてスタイリッシュな煎餅ブランド「センベイブラザーズ」のヒットにより、人気を博していることでも知られている。しかし、そのヒット商品を生むまでの道のりは平坦ではなかった。
2014年、笠原製菓は倒産寸前の危機的状況に陥っていた、と健徳さんは振り返る。
「およそ30年前に父が亡くなり、そこからは叔父が工場を支えてきました。2004年に弟も工場長として家業に加わりましたが、煎餅の需要が減るなかで製造卸の注文は減少。苦しい経営のなかで従業員も減り、ほぼ弟ひとりで製造を担当するようになりました。追い打ちをかけるように2011年の東日本大震災があり、2014年には叔父に病気が発覚。いよいよ会社の存続が危ぶまれる状況になったんです」
デザイン事務所に就職し、20年近く煎餅とは違う道を歩んでいた健徳さんは、ここで実家に戻ることを決意する。
「父が亡くなった時、もっと何かできたんじゃないかという後悔が残りました。その後悔を繰り返すわけにはいかない。何ができるか分からなくても、家族のために、自分にできることをやってみようと思ったんです」
デザイナーと職人、異なる道を歩んできた兄弟の個性を活かした自社ブランド「センベイブラザーズ」はこうして誕生した。市況に影響を受けやすい製造卸100%の体制を脱するため、直売ブランドをつくろう、という試みだ。発想の原点となったのは、健徳さんが表参道のオフィスに勤めていた頃の経験だ。
「お腹が減ったときのために、鞄の中にはいつも煎餅を忍ばせていました。でも表参道でスーツを着て煎餅を食べることが何か恥ずかしくて…こそこそと隠れて食べていたんです。その時、もしニューヨークの街中でホットドッグを食べる感覚で、かっこよく食べ歩きができる煎餅があったら価値が高まるのではないか、と閃きました」
パッケージも、売り場も、食べ方も、伝統だけに縛られず、煎餅の新しい魅力を引き出してみたい。そう考えた健徳さんは、デザイナーとしての目線から、洗練されたロゴデザインやスタイリッシュなパッケージで、従来の和菓子的なイメージを一新したブランドをつくることを思い立つ。コンセプトは「せんべいを、おいしく、かっこよく」。弟がつくった煎餅を、兄が売る。「センベイブラザーズ」という名前もこのとき決まった。
常識に囚われない発想が生む、新しい価値
今や、有名ホテルやファッションブランドとのコラボレーションを行うほど人気を確立している「センベイブラザーズ」だが、最初から順風満帆な道のりだったわけではない。ブランド立ち上げ時から「10人のおいしいよりも、1人が10回買ってくれる商品を目指す」と掲げ、大量生産の煎餅とは一線を画す、食べた人の記憶に残る味を追求してきた。その個性的なラインナップは、業界の常識や、市場調査・トレンド分析にすら囚われない発想から生まれている。
たとえば定番のひとつである「極みわさび」は、「極み、という名に恥じない本格的な辛さを追求したい」という健徳さんたっての要望から生まれたもの。弟の忠清さんと何度も何度も試作を重ね、通常の「わさび風味」を越えたインパクトのある刺激を実現している。
「ようやく『これだ!』という味にたどり着いたとき、弟から『実は、わさび苦手なんだよ』と告げられました。涙目になりながら、ずっと味見を続けてくれていたんです。その苦労のおかげで、人気のフレーバーとして長年愛され続ける商品になっています」
販売方法にも、健徳さんの慣習に囚われない発想が取り入れられている。従来、煎餅業界では割れた商品はB級品として安価で販売するのが通例だったが、「センベイブラザーズ」ではあえて1割ほどの割れ煎餅を含むグラム表示で販売をしている。常識を疑い、新しい価値を見出す姿勢と、兄弟それぞれの個性が推進力となって、煎餅の世界に革新をもたらしているのだ。
兄弟で力を合わせて、これからも挑戦を続けていく
工場のある船堀は、笠原さん兄弟にとって生まれ故郷。かつては近隣に多くの町工場があったが、その街並みも時代とともに変わりつつある。
「多くの工場がマンションや戸建てへと変わり、区外から移り住んでくる人が増えるのは良いことなのですが、醤油などの匂いを伴う煎餅づくりにおいて近隣への配慮は欠かせません。製造の難しさは増しています。窓を開けられないので、夏場は工場内の温度が50℃近くまで上がることも。作業環境の改善は大きな課題でした」
このような危機も、新たな発想を生むきっかけへと変わる。“焼き”の工程を簡略化した「ライスポップクラッカー」という煎餅を開発したのだ。「お米を特殊な方法で加工し、スナック菓子のような軽い食感を実現しました。サクサクでクセになる味、と好評をいただいています」と健徳さん。
これらの挑戦の裏側には、兄弟それぞれの異なる視点を持ち寄れる強みが見え隠れする。煎餅のことは知らずとも、商業デザインの現場でマーケティング視点と発想力を身につけた兄・健徳さん。一方で、職人である弟の忠清さんは長年の経験から、新しいアイデアを実現可能な形へと昇華していく。兄の自由な発想を、弟が確かな技術で形にする、ふたりの関係性が「センベイブラザーズ」を支えているのだ
最後に、健徳さんに生まれ育った江戸川区に寄せる思いを聞いてみた。
「江戸川区って、一見目立つ観光地はないんですよね。東京三大タワーのひとつ、『船堀タワー』はありますけど、東京スカイツリーと東京タワーに並べて語るのは少し恐れ多いような(笑)。でも掘り下げていくと、パリ五輪で柔道の審判を務めた花火職人がいたり、ものすごく行列のできるラーメン屋があったり。最近はオリンピックアスリートやタレントもちょこちょこ出てきていて、魅力的で多才な人の集まる街なんです。そういうところが大好きです」
健徳さんは「困難は必ずチャンスをもたらす」と語る。原材料不足や猛暑による作業環境の課題に直面しながらも、それを新商品開発のきっかけへと変えてきた経験が、その言葉の重みを感じさせる。変化の激しい時代にあっても、笠原製菓はこれからも自分たちにしかできない価値を探し続けていくのだろう。
Writing 木内アキ
事業者のご紹介
1945年に「笠原煎餅屋」として新宿区で誕生。1959年に東京五輪の区画整理により工場を葛飾区に移転、翌1960年に「笠原製菓」として創業。1970年より船堀に移転、現在は4代目社長の笠原健徳さんと弟で工場長の忠清さん兄弟が核となり、創業時から受け継がれる機械を動かしながら、新しい味わいの開発に挑戦している。2014年、「せんべいを、おいしく、かっこよく」をコンセプトにした自社ブランド「センベイブラザーズ」を発足。定番のたまり醤油からトリュフポテトなどの斬新なフレーバーまで、幅広い商品を展開している。
・有限会社笠原製菓(センベイブラザーズ)
・東京都江戸川区船堀7-6-16